中間”私”小説作家の「告白」

明るいいじめの思い出
セックスは汚くて、出産も汚くて、誕生日も汚くて、自分も汚い
「もともと綺麗だったのがますます綺麗になっていた彼女は、「そういう人」に、なるべくしてなったのかもしれない。」
普通は害悪かどうかはわたしにはわかんないですが、きっとこの筆者は害悪だと思っているんだろうと想像する。私はわかんないといったが、害悪ではないと思っているフシがある。ミソジニーだって普通の価値観である。でも今はわたしは職場でそいつと戦っている。自分の中のミソジニーと戦いながらだ。

セックス自体が汚らしい行為である、というところに行き着く。そして、そんな行為の結果としてこの世に生を受けた自分ははじめから穢れた存在であるという自己否定の苦痛が、ぼくを縛りつける。苦痛。苦痛。
「そんなこたないぞ楽しいぞセックス」「してみたら変化するんじゃない?」と言ってくるフォロワーもいる。そういうひとはこれまでにもたくさんいた。まるでしつこい新興宗教の勧誘のようで、うんざりする。父と母の体液が全身をくまなく覆っていて、常時ぬめっているような感覚にとらわれるこの気持ち悪さが、あなたがたにわかるだろうか? これが不浄、汚穢でなくてなんだというのか。

わたしはセックスなんて知らないけど、射精したり、濡れたりすることがセックスなんだろうかとは思う。言葉の外にいる人たちのコミュニケーション欲求みたいなものが接触的な方法や肉体的な動きや声の調子なんかで表されている気がする。性的なコミュニケーションが原理的にあるのかもしれない。逆に性的なコミュニケーションを取りたいのは、コミュニケーション欲求があるからかもしれない。握手するのも、ツッコムのも、酒を酌み交わすのも、語り合うのも、ツイッターするのもセックスかもしれない。

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よく障碍を持った女性が家庭で性を禁忌にされがちで、で、興味を持つことに対する矛盾でちぐはぐな行動、言動になっていて、うまく肯定・受容がいかなく困る 2011/06/26

http://b.hatena.ne.jp/entry/lunaticprophet.org/archives/5259

知的障碍者の入所施設で働く私は、家庭の中に閉じ込められがちな彼女たちに接する機会が多い方だと言える。保護者の気持ちも何となく想像できる。娘をひどい目に合わせたくないんだろう。そして、どう伝えればいいかなんかわからないし。正直わたしもわからない。
記事の筆者に何か伝えようと思うけど、わたしの頭が悪いので言葉にできない。