まんじゅうは怖くないが、ばかにされることとサポートの失敗は怖い

『プラネテス』のポリティカ その1 - 猿虎日記(さるとらにっき)
『プラネテス』のポリティカ その2 - 猿虎日記(さるとらにっき)
プラネテスのポリティカ その3 - 猿虎日記(さるとらにっき)
マンガ・メディアにリベラリズムはあるか? - umeten's blog
http://d.hatena.ne.jp/uedaryo/20090726/1248588372
幸村誠の『プラネテス』に関して言えば、何か言いたいこともあるけども、

……
ははは
ざまーみろ、無理矢理関係してやった
この宇宙にオレに関係ない人間なんか一人もいねーーーんだ
はっはっはっはっはっはっは

これと、全人類、赤ん坊からジジイまでを根こそぎ感動させるスピーチができたら、人類は銀河連盟に仲間入りってところがあるので、それでいいのです、わたしは。

こうした、「反体制運動には なにか裏であやつっているものがいる」という陰謀論は、「宇宙防衛戦線」にもくっついていて、この宇宙の環境保護運動は、「利害の対立する宇宙企業同士がライバルの攻撃に利用してる」という 設定もありました(どちらも、「事情通」ぽい 登場人物が 主人公に「裏事情」を おしえ、主人公は「へー」と あっさり 信じています)。このへんは、しょうじきいって「市民運動とかいいながら 実はプロ市民運動なんだ」っていう例のネトウヨ的ウラ読み(陰謀論)との共通性を かんじざるを えませんでした。

とか、相対主義とかに拘泥?、はまってしまうのはなぜかっていうと、馬鹿にされたくないからだと思うのです。ばかにされることっていうのはすごくつらいんですが、頭がいい人はあまり知らないのかもしれません。特に日常的に常に馬鹿にされるってことは知らないでしょう。相対主義って、頭よさそうだもんね(ばかにとっては)。でもその相対主義もばかにされてしまいます。だから、わたしとしてはあらゆる言葉を使った思想とかが嫌いなのですが、なぜなら、思想、イズムはばかをばかにしたいだけだからです(これは相対主義じゃなくて、言語廃止主義という言語に頼る自分がすでに矛盾。言葉は自分の為と言葉の外にいる人間の為にこそ使えよ、言葉ができる仲間内だけで使うんじゃねぇよ。そんなんだったら廃止だ廃止っていうかんがえかたです)。なんつうか、あらゆる差別がなくなっても最後に残る差別があり、それはバカに対する差別だろうなと想像します。


ばかにされることはこわいです。ばかにされると、マイノリティーの中でも最底辺ですから。マイノリティーの味方の人ですらバカには味方してくれないことが多いです。そう、バカにサポートを、って発想はあんまりでてこないです。


視覚障碍者や妊娠している人や足の不自由な人なら、ナチュラルサポートは期待できます。しかし、頭の不自由な人へのナチュラルサポートってついぞみかけません。それどころかばかにされます。バカが嫌いで疎ましいっていうのもでかいのでしょうが、サポートの失敗を恐れるっていうのもあるのでしょう。これは、バカに限った話ではなく、ナチュラルサポートが出にくいのは、無関心や無知だけではなく、やはりサポートの失敗を怖いって思うことが多々あるのでしょう。


バカは議論に参加できませんし、バカは黙っておけと言われます。バカは失敗するのですがそれも許されないためです。何度も失敗するのですが、それが歯がゆいのでしょう、頭のいい人にとって。よくわかります、私も頭のいい人よりは頭が悪く、頭が悪い人よりは頭がいいためです。そこは想像力や経験で埋めたいところだと思うんですがどうでしょうか。

つまり、「男は、自分の心の中の信念を貫くべき、否、貫いて『しまう』ものである」というロジックが作品全体に貫かれている。

局限すれば、『プラネテス』にしろ、『グラン・ブルー』にしろ、自閉症的思考方法の絶対的正当化の物語であると言っていい。

比喩としての「自閉症」ではなく、文字通りの自閉症者の思考、という意味で。


そうした、男の信念=自閉症的思考とは、即ち「他者の存在を消去すること」に他ならない。

HitTheSupportersBull 自閉症, 発達障害, 差別, 映画, アニメ, おたく, まんが, 読んでない, もう一度考える 黒夢自閉症を思い出した。自閉症という言葉に夢を見たいのかもしれない、遠藤浩輝の「EDEN」と同じ。サヴァンとかに夢を見るのと一緒かな。 2011/01/24

http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/umeten/20090816/p1

仮にこれが自閉症的思考だったとして、いや実際に自閉症児者に施設の支援員として接する身としてはこれはなかなか首肯できませんが、特に「他者の存在を消去」あたりは、怒りにうちふるえますが。いや実際に自閉症児者の中にもいるかもしれません、そういうファンタジーな存在が。しかし、自閉症児者は実際に存在するリアルな存在なんですが見えにくいものですね。いや、ファンタジーもリアルもしっかりと分けることができないので、しかたないぶぶんもあるでしょう。ま、それはおいといて、その自閉症的思考の持ち主にはサポートをって発想はいけないことでしょうか。教育的視点だけではなくて支援と言う発想もいるんじゃないかなと思うのです。実際にできない人にはできないのであきらめが肝心です。なので、適応は個体の方からではなくても、環境の方からでもいいんじゃないかなぁとおもうんです。


私の政治性がなんなのかはよくわからないのはわたしがあたまがわるいせいです。しかし、言葉の世界において、思想や政治や議論なんかの世界では、バカであるというハンディキャップは理由になりません。そして、わたしはばかですっていうのはエクスキューズとして、しかも、予防線としてバカにされます。しかし、そろそろバカを理由に、前面に出して、頭のいい人たちに要求してもいいんじゃないかとも思うのです。あたまがいいてだけで、高水準の教育が受けれて、頭がいいってだけで給料も高い(私的な学歴コンプと低所得福祉就労者らしいね)。文字が読めるってだけで、いろんな知識を手に入れることができる。本も新聞も。テレビもラジオも理解ができる。インターネットだって。いろいろな表現にアクセスできて、いろいろな表現を理解ができて、いろいろな表現を発することができる。表現の自由っていうのは強いものから弱いものを守るため、国から個人とかの法というか、方法だとおもうんですが、結局、表現(の理解が)できる人が表現できる人たちだけの自由を守って、できない人の自由を奪っているよっておもってしまうんです。


しかし、頭がいい人は、バカを怖がっているのかもしれません。それは普段は接さないからかもしれません。やはり、経験と想像力の問題なのでしょうか。案ずるより産むがやすしとマッチョなことを言うしか思い浮かびません。なにかいいほうほうがないのだろうか。